昭和41年07月03日 夜の御理解
例えば汽車に乗って、その満員の汽車なんかに乗って立っておると、誰か席が開いたらと思うてその席をねらっておる。席が空くとこの席に。それでまぁいくらか楽になるのですけれども、暫くすると段々その少なくなるともう一箱に一人という、そいで横に長うなる。だからもう横に長うたったから、それでいいかと思うと、横に長うなっら長うなったで又きつい。やっぱりうちの畳の上で足長々と伸ばすほうがまだよか。
というてなら、押し込みのような布団の上に長うならして頂いてもそれで楽か、成程一寸は楽参っとき寝とると、もうそれでもやはり楽ではない。ね。そんなもんでしょうが。私共が十何年前の、いわゆる本気で様々のいわば、終日が修行であったという時代の事なんかもう電車なんか電車に乗っても、汽車に乗っても御本部参拝しても、もう掛けんと思うておるから。だからその中に喜びが湧いた。
少しでも楽になりたい。どこか席は空かんじゃろうか、と鵜の目鷹の目するときには、っ席があってもその席で長いこと、あぁ良かった席があったという程度、もう次にはそれだけではやっぱきつい。かけておってもきつい。長くなっておってもきつい。ね。と言う様な所を、私は信心修行の上にも、又は現在お互いが頂いておる、難儀と感じるような中にもそれを思うてみなければいけん。ね。
いわゆる楽はせんぞという気になるということ。ね。だから楽をしてはいけないというのではないけれどもです、神様がさせねばおかんいわば、楽はさせて頂けとこう仰る。すると思うちゃならん。神様にさせて頂く楽でなからなければならん。それを自分で求めて楽をしようとするところには、決して楽はないという事。ね。私共でもここへ朝から7時間奉仕させて頂くのは、平気どころではない有難い。ね。きつくないかというときついことはきつい。眠たい時なんかは本当にきつい。
けれどもやはりそこを辛抱しぬかせて頂いてから、その後に有り難いものを確かに頂く。ところが一度こちらへ下がらせて頂きますと。もう横坐りが足をなごなし、足をなごなしながらもう横に成る。もうそれで足をなごうしたから、横になったからというて楽になったかというと決して楽ではない。これは考えなければいけないなと、最近自分で思う。そこで私は、例えば現在の難儀な中にあってもそうなんですよ。私がなら窮屈な修行でもしておると致しましょうか、金銭なら金銭の不自由な窮屈な中に、修行をさせて頂いておると致しますか。
そいで本当に楽になりたい楽になりたいというとです、ならそこに成程お金のお繰り合わせを頂けれうようになったけれども、それだけでは一つも幸せじゃないから、お金がないならないという窮屈ななかにまず信心の喜び、窮屈な中の味わいというものを、味わい抜いて、その次のおかげを頂いていくという気持ちにならなければ、いけんのじゃないか。丁度汽車の中で立っておれば席はないかと席をねらう。席があれば少し楽になれば横になる。横になってもまだ楽じゃない。
畳の上がまだ楽、いや押し込みの布団の上がまだ楽のようにあるけれども、んならそれに押し込みのふとんの上に寝らせて頂きゃ、なら楽なばっかりかというと、もう本当にやはり退屈を感じたりきつさを感じたりするのである。ね、だから私共が現在、いや立たなければならない運命にあるならばです、立つ中に座っておるだけの事を頂いておるならば座ってよいそこの中に、ね、私は信心の喜びを解らせてもらえれる信心修行にならせてえれる、信心修行の裏付けがそれになからないけない。ね。
その、(?)信心の向上はない。ダラーとなってしまっておる。本気で修行ををするぞと、本気でもうそうせんもんだと決め込んでおる時には、金光までたって行っても有難かった。例えば、汽車の中でどうでもかけなければならないならかけるけれども、かける事が勿体のしてたまらなかった。とてもこう後ろにこうなんかかるだんじゃなかった。そう、いいえ私は修行をしよりますけんといわないわけにはいかん。(?)掛けなさいといわれりゃかけなければならなかった。
それはもう楽はせんぞという気であるから、とても立ってもと思うておるとに、腰掛けただけでも有難かった。だから後ろになんかかるだんじゃなかった。ね。なんかかろうとは思いもせん、体も?、ただ勿体無い勿体無いで御本部の参拝をすることが出来たと。あの時分の事を私は、今日はしきりにこう思う。ね。人間というものはちょっと楽をしよう出来ると思うとです、もうとことん楽を堕落してしまうです。ね、そこで私は思うのですけれども、丁度あの山伏という方達が山伏修行を致します時に。
どんな山中でも一本歯の下駄を歩いて修行をすると言う事でございますね。いつでも一本歯の下駄を履いておるような気持ち。油断したら転ぶ。ね。だから本気に修行をさせて頂いておるときにはですね、本当にその修行の喜びを解らせてもらわなければ、馬鹿らしいですもんね。ですから私共本当にここに、あの一本歯の下駄でも履いておるような気持ちで、修行をさせて頂くとです、一本歯がまた楽になるです。いやとても二本歯では歩けないところにでも、一本歯でいけば歩けれるような。
一つのものが身に付いてしまうというところまで信心修行というものをしなければ徹底しなければだめだと言うような事を感じる。ね、だからどうでも一つ、本気で楽はせんぞという気にならなければいけない。そして神様がです、させなければおかんさぁ席があいているかけなさいと、と言われたらです、ね、かけん訳にはいかんから掛けもするけれどもです、さぁ寝そばてってでもいこうと言う気持ちはならない。
もうかけさせて頂いたと言う事だけが勿体無いということになる。だからいつどう言う様な中にあっても、どういう場合にあっても、ね、そこに真剣に有難いというものを感じれれるところの信心、もう少しでも楽をしたい、少しでも楽をしたい、少しでも身楽をしたいと。と言う様な中にはですね、どう言う様な中におかげを頂いても、信心の喜びというものは、私は湧かないと思いますね。
どうぞ。